嫁いだ虫たちが、また嫁ぐ
親戚に嫁いだカブトムシ幼虫は、最終的に八百屋に嫁いだ。保育園に嫁ぐのが有力視されていたが、園長・主任はウエルカムだった一方、若い職員は猛反対したそうだ。生き物の飼育が保育・教育上良いと考える管理職と、そうはいっても日々世話をすることになる現場職員との対立があったのではないかと想像した。
なぜ八百屋が引き受けたのかはよくわからない。野菜を買った人へのオマケなのか、カブトムシ幼虫を食べ物として捉えているのかよくわからないが、まぁいいでしょう。面白い八百屋だなぁと思った。雨が上がったら、挨拶しにいこうかな。
物からの自由
虫は欲しい人の所に収まった。開花した胡蝶蘭は母に贈った。「どうでしょうキャラバン」のスタッフTシャツはいとこの子にあげた。そうして物がどんどん無くなっていくのが心地よい。
東京新聞の社説(4月30日)に、渡り鳥を見た詩人の言葉が載っていた。「だれも、手荷物の一つも持っていないではないか。そんな長旅なのに、手ぶらだ」。記者がその感性にハッとし、その記事に私が考えさせられた。
物を所有することにより、本来自由であるべき時間を拘束されている私。空腹により五感が研ぎ澄まされるように、所有物が無くなることにより見えてくる本当のものがあるのではないか。もっと削ぎ落としていこう。
必要なものだけを買う
妻の買い物に同行した。妻は靴、バッグ、服などを買った。その間、時間潰しで生活用品、キャンピング用品、本などを見ていた。収入がないから買えないという現実もあるが、欲しいと思うものが無かった。働いていたら買っていただろうと思うものはいくつかあったが、どうしても必要とは思えず、無駄な支出により失う可能性がある自由な時間とを天秤にかければ、勝負は明確だった。
それでも欲しいものに出逢ってしまった。トマト、インゲン豆、スナップエンドウ、キャベツなどの野菜が安く、これらがあればあと何日も食べることを楽しむことができると1600円を支出した。家に帰り、良い買い物をしたことを認められたくて、家族に一品一品価格を伝え自慢した。
昔、娘が友達2人と近所の店に行った時のことを思い出した。娘が「お父さん、Aちゃんは欲しいものがみつからなかった。Bちゃんは欲しいものがあったけれど、お金が足りなくて買えなかった。Aちゃん、Bちゃんが可哀相だった。私は欲しいものがなかったよ」と言い、小遣いというものを与えなければいらない時期が近づいていることを自覚した。娘を愛おしく思った。今、欲しいものがない幸せに近づいているのかもしれない。
ツマグロヒョウモンのカリンバ・ウッドバーニング
大好きなツマグロヒョウモン模様のカリンバを作りたくて、コテでニレの木を焼いた。焼いたところは凹み周囲との段差ができるので、それで漆の色分けをして模様をつけてみたい。オレンジ色を出すのは難しそうだ。どこまで行けるだろうか。
赤飯
いただいた餅米の取り扱いに家族が困っていたので、楽天レシピで餅米のレシピを調べ、オーソドックスに赤飯にした。
小豆50グラムを洗って2合分のお湯に漬け、炊飯器で2時間保温状態にする。3合の餅米を研ぎ、保温した小豆(湯はそのまま使う)と餅米を混ぜ、水の量を3合にして炊く。
簡単に美味しい赤飯ができたことに感動してしまう。よし、明日はぼたもちを作ってみよう!
コメント
物を減らすとスッキリするし、
本当に大事なものはそんなに多くないということに気付かされるね。
私も同じようなことを最近思います。
記事、毎日楽しみにしています(*^^*)
記事をご覧いただき、ありがとうございました。
昔、子どもが友達2人と近所のお店に入った時のことを思い出しました。
「お父さん、Aちゃんはお金が足りなくて欲しいものが買えなかった。
Bちゃんは欲しいものが見つからなかった。2人が可哀相だったよ。
私は欲しいものがなかったからよかった」と報告があり、
「そうか、子どもに小遣いというものを与える時が近づいているな」と思ったのを。