幸せの基準

家族

「歳をとると幸せの基準が下がり、ささやかなことでも幸せを感じるようになる」という記事を読んだ。

もとの基準は人それぞれで一概には言ないだろうが、その記事はスッと腑に落ちた。

若い頃は幸せの基準それ自体を上げるべく努力していたように思う。ギターをより上手に弾けるようになる。ジョギングタイムを短くし距離を伸ばす。友達を沢山つくる、仕事で昇格する。

しかしそれらは歳をとり、これ以上望めないことがはっきりした。最初に「諦め」に気づき、いつしか「諦め」が心身に馴染み基準が下がっていた。

では不幸なのかと言えば逆である。

ギターは相変わらず下手だが、音を奏でていること自体が楽しい。ジョギングはしなくなり、静岡に出勤して職場があるビルの7階まで階段を上がるだけで満足する。読書しながら上がり、先週はうっかり9階まで上がってしまった。

友達というものがほとんどいないことに気づかされた。時折飲みに誘われたりすると、それだけで嬉しくなってしまう。

仕事であまり昇格しなかったのも、今思えば必然だったと理解できる。

基準が下がった分、ちょっとしたことでも新鮮に感じる。

今週、帰宅途中の電車で、私よりも年配の男性が「失礼します」という感じで片手を上げて隣に腰かけた。「どうぞ」と軽く会釈。次に、やはり年配の男性が同様にして向かいに着座し、私は会釈した。

数駅通過し、眠っている向かいの男性の携帯が鳴った。男性は何事が起ったのかという表情で目を大きく開き、直ぐには携帯が鳴っていることに気づかず、しばし私の目を見ていた。携帯が鳴っていることにやっと気がつくと、「失礼します」といった感じで片手を上げ、慌てて席を立ち下車していった。人柄の良さに感心するとともにそのユーモラスな表情と仕草に腹の底から笑いがこみ上げ、しばらく一人でゲラゲラと笑った。

三女が結婚した。先方のご両親と酒を酌み交わした時、娘が選んだ相手とご両親が素敵で、「理想的な家族」というものがあるとしたらこれを言うのだと思った。

その席で婚姻届の証人欄に氏名、住所を記入したが後日、先方のお父さんが住所を間違えたことが判明した。「緊張していたのでしょう、いい人だねぇ」と娘に言ったのだが、その後連絡があり、私も番地を間違えていたことがわかった。娘は笑っていたが、私は自身の行いを恥じた。「正しく番地を書いたが、その数字が勝手に変わってしまったに違いない。科学で解明できていないことが世の中にはたくさんある」とごまかした。

二女の二人目の子がお腹の中ですくすく成長している。今はマンゴーの大きさらしい。

体の部位がはっきりわかるのが凄い。時代は変わったなぁと思う。

次の写真を見た時、頭蓋骨の成長過程を撮影したものと思い、「そうか、頭蓋骨は成長してだんだんと閉じていくのだね」「そういえばあかちゃんには頭蓋骨に閉じていない柔らかいところがあるね」などと言っていたがそうではなく、断面を撮影したものだった。

男か女かは知らないが、男だったらキャッチボールをしたいと思い、グラブを持ち出し、軟球をパンパンと放り込んだ。女だったら三人娘に五人孫娘となり、それはそれで華やかで賑やかなことだろう。

身の回りの世の中は小さくなったけれど、楽しいことが増えた。ささやかなことに愛おしさを感じて過ごしている。

コメント

  1. セリカRX より:

    私の娘も先日女の子を出産しました。おなかの中の動画も今は見ることが出来るんだね。
    初孫なんですよ。

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