母との時間
水曜日は実家の母を皮膚科に連れていく。日曜日は母の見守りをする。
歳をとると身体の修復能力が衰えるせいか、皮膚科通院が終了する目途は立たない。
自宅を出て実家の母を車に乗せ、逆戻りするように隣町の診療所に向かい、受付を済ませてから車椅子に乗せて診察を待つ。
他の病気や時々の体調不良で治療が中断することもある。医師は容赦なく「理由にならない」とはねのける。その通りですと頭を下げる。
せめて2週間分の薬を処方してくれればと思うが、診察は毎週。本来それが正しいとは思う。
そういう生活も馴染んで、平日の昼間に母と過ごす時間がありがたいもののように感じるようになった。
正月に腸閉塞で緊急手術を受け、人工呼吸器を装着し、延命治療についての考えを医師から求められ悩んだ時がどんどん遠くなっていくことが不思議だ。
とは言え、食べること排泄すること以外の時間は、ほとんどベッドで横になり眠っている。
妻が「赤ちゃんに帰るんだね」と言う。オムツをして眠ってばかりで、食べるものが離乳食のようなものになる日も来るのかもしれない。
「自分が赤ちゃんの時にしてもらったことを返すことになるんだね」と妻。
私の時間
残された時間は私自身もどんどん少なくなっている。いつ終わりが来るかわからないが、母と同じくらい生きられるとすれば30年。
70歳を過ぎると健康上の個人差がはっきりするとか、旅行などアクティブに行動できるのはせいぜい75歳までだとか耳にする。すると残り10~15年しかないじゃないか。
放浪の時代
私の場合、旅行のほとんどは貧困旅行で、特にお金がなかった30~50代に楽しんだ。宿は雨風凌げればとりあえず良しとしていたから、前の宿泊客の灰皿からこぼれ落ちそうなタバコの吸い殻があったり、ペットボトル1本サービスとありながら飲み残しであったり、床に物を落として拾うとベッドの下の大量のゴミに気づいたりと、今思えば懐かしい。カーテンの半分が破れていた民宿では、何の気なしに「この民宿、永いことやられているんですか?」と尋ねたら、「修繕もできませんで申し訳ありません」と頭を下げられ笑ってしまった。
その民宿は1人でも部屋食で、品数も多く7000円台だった。房総半島の東岸にあり、駅から少し距離があったが、翌朝雨が降ると駅まで車で送ってくれた。7000円台でコース料理が一人でも楽しめ、さらに温泉を引いている宿もまだまだあった。
最近、仕事の関係で宿を探した時、かつて割安だったチェーンのホテルが9,900円と知り驚いた。ビジネスホテルも倍の料金になっていて、2万円などと聞くと何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。私が好む貧困旅行の時代は終わった。
想像に遊ぶとき
では残りの時間を何に費やすか。陶芸も漆も、また油絵もと思うし、父の彫刻刀を生かしたいとも思う。しかし一番は読書だと思うようになった。
須賀敦子2冊目の「コルシア書店の仲間たち」文藝春秋,1995を読んでいて、大学生の頃を思い出した。須賀敦子が関わったミラノのコルシア書店のサロンに集まる人々の様子に、1980年代に東京で色々な人に会い集まり、話や議論ばかりしていたことを懐かしく思い出した。青臭かったけれど希望や情熱があった。
誰かがAという本、作家が良いと言えばそれを読み、Bと言えばそれを読んだ。連日の議論に、今思えばほとんど理解できず、ただただ懸命に追いつこうと努力していたのがわかる。
色々なことがこの頃やっとわかりかけてきたように思う。知りたいことが山のようにあり、そこに時間を費やしたい。人はやはり原点に帰るのだろう。
白洲正子の美や能に関する本も貪るように読んでいる。西行の歌をもっと感じられるようになりたい。石牟礼道子のことばを噛みしめられるようになりたい。つげ義春のような感性を失わずに過ごしたい。なぎら健壱のように酒を楽しみたい。
そう考えると、残り時間はいっそう短く感じられる。
白洲正子「日本のたくみ」新潮社,1984に「気が向かなければ仕事をせず、実生活でも、学問の上でも、放浪をつづけている人物を、私は見事だと思う。同時に、辛いことでもあると思う。が、辛さのともなわないあそびなんて、あそびのうちに入るであろうか」という一文があり頷いた。
今、少しだけ仕事をして僅かな収入を得ているが、徐々にそこに近づいているような気がする。
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