小林清親は、“光線画”という技法を創出し、江戸から明治に変わる東京の風景を描いた浮世絵師だから、この浮世絵に記された小林清親らしきサインを見て、ほんとうに清親なのだろうか疑問に思った。
本棚の「別冊太陽 小林清親」平凡社,2015は、本を行商するMさんの紹介で買ったと記憶しているが、その本には「“光線画”に描かれた郷愁の東京」と副題がついていて、それに該当しないこの浮世絵は載っていない。
グーグルで画像検索すると、郵政博物館が収蔵していることがわかった。
そこには、小林清親1885年(明治18年)の作で「巻紙を持ち侍女の差し出す硯箱から手紙を書こうと筆を持つ網吉を主にし、区切りをつけて柳沢弥太郎(吉保)を描き、部分的に当時の風俗を描いた宝永元年正写と記した物語性のある絵である」と解説されている。
しかしこの浮世絵が清親の作品の中でどこに位置付けられているかは、調べてもわからなかった。
「宝永元ノ頃」と書かれている。宝永元年は1704年で、綱吉が次の6代将軍を決めた年。
柳沢弥太郎は柳沢吉保の通称名で、綱吉に寵愛された家臣だが、「おさ目」というのが何なのかわからない。吉保の側室に「おさめの方」という人がいたらしく、郵政博物館の解説のとおり、女性が侍女とすると、吉保が側室を綱吉の侍女としたのかと勝手な想像をしてしまう。「おさめの方(1688~1724)」は、この頃16歳になる。
「おさ目」は名前ではなく、「治める役」と考えてみると、将軍を家臣が治めるというのは風刺以外の何物でもないが、いずれも全くの見当違いかもしれない。。どなたか詳しい方に教えてもらいたい。
柳沢吉保が別枠に描かれているのは、側室を侍女に供し、将軍をコントロールしようとしているからかと…また妄想が始まる。
策を弄して将軍に何かを書かせようとしているのではないか…。
「日本史年表 増補版,岩波書店,1993」の1704年の政治欄を見ると、「綱吉,甥の甲府藩主徳川綱豊を養嗣子に定め,家宣と改名させる」に続き「柳沢吉保,甲府へ転封となり,15万余石に加増される」とある。次の将軍が決まったことと吉保が栄転したことに深い関係があったのだろうか。
そういったことはともかく、周囲に描かれた当時の風俗は見ていて楽しい。
あまざけ屋の前でふ~ふ~冷まして子どもに与えようとしている女性。
これは何をしているところだろう。次の絵の奥の男の人は何を取り出そうとしているのだろう。
格子の向こうの女性は遊女だろうか。
「別冊太陽 小林清親」に「明治十年代後半の東京はようやく往時の人口を回復し、市街地に活況が戻っていった。それに伴い浮世絵を求める購買客も一時増え、その層に当てた復古調の作品が増えていった」とある。
しかしそれは、1884~85年(明治18~19年)に描かれたシリーズ物の「武蔵百景」を指すようで、この浮世絵がどこに位置づけられるのかはわからない。
1881年(明治14年)頃から手掛けた「大衆や弱者の側に立つ清親の姿勢と物事を穿った視点が認められる」という「ポンチ絵」(「別冊太陽」)に当たるのだろうか。
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