気になる本は買っておく

哲学

本を買って読むか図書館などで借りて読むか、私の場合、買って読むことが多い。それは、心が揺さぶられた言葉や新鮮な知識が得られた箇所に印をつけておき、のちにふと思い出した時や必要になった時に、なるべく早くそこに辿り着きたいから。それでも最近は付箋を使い、直接本に書きこむ事はしないで、私が死んだ後、残された家族が少しでも有効に処分できるようにしている。

心が揺さぶられることがイメージできない本は買わない。図書館で借りる。図書館になければ縁がないと諦める(今のところ図書館の相互貸借制度や国会図書館は利用しない)。一方、図書館で借り、印をつけたくなった本は追いかけるようにして買う。

英文学部だったので、海外小説(翻訳)はもちろんのこと、日本の小説も読んだ。太宰治、三島由紀夫、大江健三郎、安部公房、村上春樹、村上龍、宮沢賢治・・・

怠惰な学生で、授業に出席するよりも、友人の部屋で昼間から酒を飲み、作品について語り合うことが多かった。とはいえ、その頃の私は日本語自体が理解できていなくて、A君が三島由紀夫と言えば本屋に走り、B君がサルトルと言えば本屋に駆け込んだ。今思うと、それらのほとんどを理解できていなかったと思う。

それでも本は買い続けた。40年も経つと家の中は書籍で溢れるようになった。本に取り囲まれているだけで作家気取りになっていた若い頃を苦笑する。

人生残り少なくなり、自分がほんとうに知りたいことは何か、そこに読書と思索を集中したい。

キリスト教・聖書に「天使」が登場する。最近、私に関わってくれた人たちはみな天使であり、福音をもたらしてくれているのではないかと思うようになった。

哲学入門

91歳の先輩が「実存主義者のカフェにて」という本を紹介してくれた。哲学かぁ・・・おそらく難しくて理解できないだろうし、それを知って何になるのかとさえ思った。おまけにその本は4,180円もする。しかし数か月後、何だかとても気になり買ってしまった(図書館になく、ブックオフ、メルカリ価格に「お得感」なし)。家に届くとすぐに本を開き、一気に読んでしまった。哲学に興味を持ちながらもどこから入っていいのかわからないという人に最適な入門書だと思った。その後、「はじめての哲学史」という本で哲学の流れを掴んでおこう思ったが、逆にこういった通史の方がよくわからない部分が多く、面白味にも欠ける。一つの思想に費やせる紙面が少なく、説明は最小に限定されるため、やむを得ないのだと思う。

井筒俊彦を知る

77歳の先輩には井筒俊彦を勧められた。いきなり「意識と本質」を読むのは難易度が高いため、若松英輔の「井筒俊彦:叡智の哲学」を先に読むといいと言われた。図書館で借りたが何だかよくわからない。こんなことに時間を費やしている訳にはいかない、などとさえ思った。しかしいつの間にか「意識と本質」を手にしていた。果たして読み終えることができるのかとじっくり読み込んだ。よくわからないところは二度三度繰り返した。読み終えた達成感の後に、これは私が一番知りたかったことだと気がついた。そう、この先輩も天使だったのだ。井筒俊彦は3冊読み終え、次の1冊を注文した。全部読むことになるのではないか。

サルトルを読む

様々なことを深く理解するために哲学について知っておいた方が良さそうだ。「実存主義者のカフェにて」でサルトルに興味を持った。若い頃に読んだ小説「壁」を再読してみたが、やはり何が面白いのかよくわからない。しかしサルトルの行動力には心を動かされる。サルトルの小説の映画化にあたり、そのままでは長すぎるため監督が相談した際、サルトルは一方的に喋り続け、うんざりした監督が部屋を出て、しばらくして再び入室した際も、相変わらず一人で喋り続けていたというエピソード。片目が不自由で、もう一方の目が疲れると、両目を瞑ったまま原稿を書き、文字が欄外に溢れてしまったというエピソード。溢れる思考に言語化や筆記が追いつかないのだろう。

井筒俊彦がサルトルの認識について書いている。サルトルがベンチの下で地面に突き刺さっていたマロニエの根を見て、嘔吐を催したという感覚、認識は、井筒の説明により頭では理解できるが、感覚としては薄い。当時サルトルを読んだ人たちがどのように受け止めたのか、先輩に聞いただけではよくわからず、やはり「嘔吐」を読まなければいけないのだと思った。いつの日か「存在と無」を読み通すことができるだろうか。

シモーヌ・ヴェイユを胸に

「実存主義者のカフェにて」にシモーヌ・ヴェイユが登場するのは僅か2ページほど。ソロボンヌ大学で、サルトルと関係が深いボーヴォワールが2番の成績で、1番はヴェイユだったというから当然面識はあり、ヴェイユについての記述がもっとあってもよさそうだが、ヴェイユはボーヴォワールを避けていたようだし、一途に独自の思想を持って行動し、早逝してしまったことや、ハイデガーのような「矛盾」めいた影がないことに、面白みが欠けるのだろうか。この本は、原著も素晴らしいのだろうが、翻訳者がまたとてもいい。訳者あとがきで、興味を持った3人の1人にヴェイユが挙げられていたのは嬉しかった。ヴェイユについてもっと知りたいと思った時、若い頃に買っておいた吉本隆明「甦るヴェイユ」があることを思い出し、本棚の奥に見つけた。全く理解できなかったことが、今はおおよそわかる。

フランスの歴史をなぞる

サルトルやヴェイユを生んだフランスの土壌、その歴史を知りたくなった。

今「フランス史」G・ベルティエ・ド・ソヴィニー,667ページを読んでいるが、興味ある宗教戦争については僅か15ページ。「教養としてのフランス史」福井憲彦,565ページも同様である。やはり「フランスの宗教戦争」ニコラ・ル・ルー,160ページを読むべきだろう。

つくづく思うのは、「通史」や「入門」といった本は、一つのことに費やせる紙面が少ないため、「なぜそうなのか?」と立ち止まっても、そこには省略された何かを感じるだけだ。そのため印象に残らない。学校の歴史教科書なども、実は深く理解できている人向けで、暗記能力に欠ける私などには不向きである。

心の奥底へ

今、井筒俊彦「読むと書く」の中に出てきたエリアーデの「世界宗教史」が気になっている。

若い頃に読んだユングの深層心理学の本を再読して、心の深い部分について考えたい。

知りたいことについて調べていて、たどり着いた書物が本棚にある、ということがしばしばある。気になって買っておいたことが、今になって生きてくる。数年前に買っておいた本、20年前、40年前ということもある。

歳をとると若い頃に還る。「50の手習い」というのは一から新しいことを始めるのではなく、昔習っていたことを基本からやり直すことだと言ったのは、白洲正子だったか。

残された時間はどんどん短くはなるが、学生時代のように、時間を潤沢に使えるようになった。若い頃のぼんやりとした意識が、今、鮮明になって蘇ってきている。

若い頃の意識、無意識のうちに手元に置いた本が、やっと表舞台に出てきて、私を肉づけようとしている。

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