喫茶店での話

懐かしい時を求めて

釣りのM先生と喫茶店で話をした。

3月末で閉店してしまう店があると聞き、行きたくなった。

カフェ・ド・モエ

広い駐車場も数台空きがある程度で店内も賑わっているが、確かに「お知らせ」に「閉店」とある。

ご飯もケーキも完売のため、ブレンドでしばしお話をする。

程なく満席となり、来店客を申し訳なさそうに断っている。

こんなに繁盛している店がどうして閉じてしまうのか。閉店を聞きつけ駆けつけた人ばかりとは思えない。

Mさんの話でも娘の話でも、この店は繁盛しているとのこと。

経営者の体力的な問題や、それに関連する気持ちの問題だろうかと推測する。

個人事業は一般的に労働時間が長く、それでいてその分を販売価格に転嫁できる事業者は少数ないのではないか。居酒屋、料理屋で飲んでいても、客としては安いに越したことはないが、経営者側に立ってみれば、もう少し欲しいだろうなと思う。

カフェ・ド・モカ

モエでまたしてもご馳走になってしまったので、「次は私が」と言って、2軒目の喫茶店へ。

Mさんから「閉店」のメールをいただいた時、「モエ」を「モカ」と見間違え、「モカ」には行ったことがあり、これからもと思っていたので慌ててしまったのだった。

平日の昼間、私達以外にはカウンター席に女性が一人。贅沢な時間を過ごす。

Mさんがケーキを見つくろっている。私はチーズが全く食べられず、バターの臭いも苦手なので洋菓子には慎重になってしまうが、チーズが入っていないことだけを確認し、思い切って注文した。

ダークチェリーのケーキ。バター臭もなく美味しい。

店内に置かれた額縁を制作する人のパンフレットを見て、綺麗だなぁと思った。飾るものができたら注文しよう。

会計を申し出ようとしたところで、Mさんが「もう俺が払ったよ」という。しまった!トイレに行くという失態をおかしてしまった。Mさんへの感謝の気持ちは、別の方法で表そう。

死について

Mさんは運転免許証を持っていないので、歩くことが交通手段の基本だ。二つの喫茶店も散歩の途中で立ち寄るのだろう。本屋に立ち寄り喫茶店でパラパラとページをめくったりもするのだろうか。それは私の理想とする姿でもある。

90歳になったMさんに、死のイメージを尋ねる。

「どんなふうに死ぬと思いますか?」

「持病があるから、ある日突然、すっと死ぬんじゃないかな」

「死ぬ瞬間は痛みが走るかもしれないけれど、死ねば『無』ですからね。生まれる前のこと覚えてませんしね」

「死の間際、はたからは痛みの表情が走ったように見えても、その痛みを消す物質が脳から出ると聞くよ」

臨死体験の話になる。

「陶芸の先生が3回心肺停止になり死にかけたと言っていました。1回は、手術室で医師たちが施術しているのを上から見聞きしていて、意識が戻った時にそれを医師たちに伝えたら驚かれたと。もう1回は、綺麗なところを向こうに進もうとしたら、来るなと言われたそうです」

「俺は、妻の介護などで疲れている時、テレビに妻の姿が写って目をこすったことがあるよ。昔、学校の先生から、生徒の進路について判断を下した後、その生徒の顔が壁に現れ、下した判断が正しかったのか自身に問うた話を聞いて、そういうこともあるんだろうなとは思っているよ」

陶芸の先生の臨死体験もMさんの体験にしても、生きている状態でのことであり、死後の世界とは違うと思っている。一方で、霊感のある身近な人の話を聞く中で、生きている人には想像できないような死後の世界があるとも思っている。いや、「世界」という言葉自体が適切でないのかもしれない。

死を経験する日が刻々と近づいているが、その経験を生きている人に伝えられないことがもどかしい。

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