命の波動が見えた頃 6月11日

懐かしい時を求めて

「命の波動」という言葉が浮かび、ぼんやり窓の外の雨を眺めていたら、コサギが電信柱に止まった。カメラを防湿庫から取り出し、数枚撮ったところでどこかに飛んで行った。

小さい頃は色々な病気をして幼稚園も小学校も休みがちだった。家に一人でいるのは、その頃から好きだったような気がする。

ストロフルス

「ストロフルス」という名称が脳に刷り込まれている。年月を経て「アトピー性皮膚炎」に名称が変わったのだと思っていたら別の病気だった。「虫に対するアレルギーと推定される」「ノミや蚊に刺され、その唾液中に含まれる物質に過剰反応を起こす」とある。

とにかく体中が痒かった。ボリボリとかくので出血してカサブタが出来、そのカサブタを剥がすことで体中に拡がったのだと思う。カサブタがいつ消えたのかの記憶はない。

40度を超える熱

小学校低学年の時に、初めて体温が40度を超えた。五感がおかしくなった。

黒電話のリリリリリン、リリリリリンという音が「見えた」。そしてその音の形がどんどん大きくなり、目前に迫ってきた。次の瞬間、玄関を飛び出していた。

幸い叔父がいて、私を抱き止めてくれたため、道路に飛び出すことはなかった。もっとも昭和40年代前半は、自動車が家の周りを走っていることは稀だったけれど。

命の波動

その後も高熱は定期的に出て、40度を超えたのも4回程あっただろうか。38度や39度の熱なら数えきれず、成人しても年に1度は発熱した。おかげで…なのか…今は39度くらいの熱であれば、3日も横になっていれば下がるなぁと、病院へ行くことも薬を飲むこともほとんどない。

しかし小学校低学年までは、39度の熱が出ては生死の境を彷徨っていた。必ず見る夢が二つあった。

一つは怖いものに追いかけられ、逃げ、逃げ切れないと思った瞬間に床が抜け地下に落ちる。落ちるのだが、そこには大きな怪物がいて私を受け止めてくれる。影しかない怪物だが、抱きかかえられた私は幸せに包まれて安心する。

もう一つは「波」だ。線が波をうち、太さ、大きさ、リズムを変えていく。その波が、段々小さくなると、いやもしかしたら大きくなると、「僕は死ぬ」と確信した。怖くなり父や母にしがみついて泣いた。

あの波は命そのものだったような気がする。最後に見たのは高校生の時だったか。

熱で消毒

私は小さい頃から色々な病気をしたことで、自分の身体と対話できるようになった。

小学校低学年の時の入院は何の病気か覚えていないが、ただただ毎日点滴をしていた。高校では急性膵炎で入院。社会人になり大腸炎(食あたり)で入院。

入院しては点滴ばかりの日々。食べ物を口から入れずに消化器官を休ませ、要は自分の能力で傷んだ部分を修復していたのだと思う。点滴は死なないよう、最低限の栄養を体に送り込んでいたに過ぎない。

また発熱は、菌やウィルスを退治するための身体の反応だと思う。発熱から回復したあとは、体全体がリフレッシュした感じがする。本来、発熱しなくても菌やウィルスを退治できる身体の方がよいだろうが、私は長い年月を経てやっと、ちょうどコロナがはやり始めた頃から発熱しなくなった。

平時の体温は高い方が良いと聞く。馴染の居酒屋の女将は、平熱が37度だという。80代後半だが、先日初めて医療の世話になった。女将の親は90歳を超えて1度だけ医療を受けたという。それも人から「主治医というものを持った方が良い」と勧められての風邪の受診である。

自分が築いてきた、というと大袈裟だが、積み重ねてきた免疫機能を大切にしたい。インフルエンザもコロナも予防接種を受けたことも罹ったこともなく、それがどこまで通用するかはわからないが、ここまできたら、このままいこうと思っている。

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