先輩が家を訪ねてくれた。
元気よい声が玄関から上がってくる。新生姜のおすそ分けを妻に手渡しているようだ。
2階の和室で積もる話をした。
6年も独り暮らしをしていると、人間が変わってくるという。それはそうでしょう、私は半年仕事をしないで家にこもるだけでも変わりましたよと返事をする。
いや、君には妻がいるから僕の気持ちはわからないだろうという。わかるようにはなりたくないと思う。
先輩はふらりと現れる。そして静かに話をする。友だちと話をすることで大きく気分転換ができ救われるのは、先輩よりもむしろ私の方ではないかと、先輩の訪問に感謝する。
友達や知人が離れていった話を聞く。仲の良い友達との距離ができると、その友達の周辺の人も同時期に離れていく。それは私にもある。周辺の人はその友達による私のマイナス評価に共感し、離れていくのだ。それは私が、その友達や知人に周辺の人に語る程の不愉快な思いをさせたからであり、そのことを私は受け入れないといけない。だた、受け入れることと変わることは別である。
友達関係で言えば、覆水盆に返らず、去る者追わずで縁がなかったと割り切るしかないが、そのような思考に陥ると、新しい人と出会った際に、つい同じ過ちを繰り返さないようにしよう、いや繰り返してしまうだろうと思ってしまう。そしてその思考の絡んだ糸が足にまとわりつき、足元がもたついて余計におかしなことになってしまうのである。
先輩の話を聞いていて、似た者同士だなぁと思ったと同時に、鏡で自分の姿を見て、さて君はどうするのだという声が聞こえてくる。
ちょうどその時、電話が鳴った。来年働く予定の職場からであった。先輩との話を中断して通話していると、急に社会との結びつきが戻ってきたようで、何かホッとしたのである。
今の状況からさらに自分を追い込んでどうなるか見極めたい気持ちがある一方で、いずれ働きたくても働けなくなる日が来るのだから、数年間社会と、多くの人と関わりを持つのもいいではないかとも考える。
「君は鳥で言えばヤンバルクイナだ」と言われたことがある。ヤンバルクイナが飛べないのは、鳥として恥ずべきことなのか、進化によるものなのかわからないが、飛翔できなくても、人としての残り時間を少しでも有意義に過ごしたいと思っている。
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