田山花袋「温泉めぐり」岩波文庫,2007を読み、生まれかわりを思う人がいることを知った。
「この西長岡のさびしい温泉場は、思索の地として ー ある思想に深い接触を始めた最初の地として、私のために、どれほど役に立ったか知れなかった。私は其処で始めて『無窮』ということに触れた。三千年前にも私が生きており、三千年後にも私がやはり生きているということを私は其処で考えた」
それは、時折私が思うことである。
例えば、ユダヤの古代史を読んでいる時、この時私はどこに居たか・・・、居たと言うよりも私の霊性のようなものはどこにあったか。それは人間とは限らない。
日本の歴史でも、戦のシーンを読んでいる時、その時私はどこにあっただろうかと考える。討ち死にした兵士なのか、武将に日常生活を翻弄された百姓なのか。
日曜の朝、NHKーFMで教会音楽が流される。たいていラジオは聴くともなく流れ去るものだが、この時だけはハッとする。もちろん教会音楽そのものが、そういった効果が期待されるものであろうけれど、つい誕生以前の古い記憶を辿るような思いに至る。
そんなことをクラシック音楽で結ばれたという知人夫婦に打ち明けたところ、共感が得られた。
しかし音楽に比べれば、文学において共感が得られるのは稀である。そもそも本を読む人が減り、その1ジャンルである文学がそこから先、好みで分かれるとすれば、共感など余程のことに違いない。
読書という営みにおいては、自己の深いところに求めるものがあればそれだけ、社会では孤独になっていく。少し前まで友人がたくさんいると思っていたのが、ふと気がつけば一人になっていた。孤立か自立か。自立と捉えれば、ここが人生のスタート、今こそオリジナリティの開花である。
その読書で、若山牧水に出会った。
最初は「新編 みなかみ紀行」岩波文庫,2002。自由気ままな旅と酒、旅先での人との関係に、すっかり魅入られてしまった。風景描写が衒いなく流れ、まるで今、私自身の目で見ているかのようである。若い頃だったら読み飛ばすほどに急いだであろう文章を、今はそこに佇んでいたくて読みかえしたりする。歌もわかりやすい。
続けて「若山牧水 伊豆・箱根紀行」木蓮社,2003。短編「灯台守」が深く残った。灯台が無人化される前、牧水が大学時代の友人(灯台守)を訪ねていった時の話である。社会と隔絶された生活に、憧れるような逃げ込みたくなるような思いを抱き、灯台守について書かれた本を読みたくなった。「灯台守の話」ジャネット・ウィンターソン,白水社,2011、「海を照らす光」M.L.ステッドマン,早川書房2015を入手(未読)。
牧水3冊目は「牧水の恋」俵万智,文春文庫,2021。牧水が何かを追い求めるように、何かから逃れるように歩き続け、酒を手放せなくなくなったのは、若き日の悲恋の恋人、小枝子が死ぬまで身体の中に住んでいたからだと知った。小枝子が既婚者で子も二人あったことを知らずに恋し、さらに小枝子のいとことの関係も複雑に絡んだ。
晩年、妻や子に愛され満ち足りた暮らしの中にありながらも、亡くなる数時間前の瞳に、牧水の娘は寂しさを感じて胸を締めつけられたという。
どうしてこうも牧水の世界に引き込まれていくのか不思議でならなかったが、「牧水の恋」を読んでハッとした。牧水が亡くなった日は小枝子が生まれた日で、それは私が生まれた日でもあった。
私が彼らの生まれ変わりであるなどと言うつもりは毛頭ないが、何か因縁めいたものを感じるのも事実である。その時、私はどこにあったか。牧水と小枝子が唇を重ねた千葉の根本海岸に打ち寄せる波濤だったかもしれないし、二人の頬を撫でた風であったかもしれない。
牧水との付き合いはその後も続いている。
「樹木とその葉」田畑書店,2019を読んでいる。「歩く人」田畑書店,2021も取り寄せた。
牧水と聞けばかなり昔の人で、漠然と老人をすらイメージしていたが、亡くなったのは43歳。15年ほど前、仕事で沼津を訪れた際、先輩に連れられて千本松原を歩き若山牧水記念館を見学したことなどを思い出した。
牧水について語れる人が周りにいない分、牧水との関係はいっそう深まっていくような気もする。この思いは次にどこに向かうのか、流れに身を委ねたい。



コメント