幼い頃の記憶

文学

幼い頃の記憶を語る人たちの本を続けて読み、どうしてそのような古い記憶を鮮明に覚えているのか不思議に思った。

石井桃子「幼ものがたり」

児童文学作家の石井桃子さん「幼ものがたり」福音館書店,1981は、「いったい、人間は、いくつごろからのことをおぼえていられるものだろう」と書き出し、満1歳と数ヶ月の頃に弟が誕生した時のことを綴っている。「母の胎内からみょうなものがすべりだしてくるのを見た」

そうして連鎖的に記憶を掘り起こし、「身近な人々」「四季折々」「近所かいわい」「明治の終わり」に分けて1冊の本を編んでいる。

私が好きなのは「ねずみ」で、石井さんが姉の友達のところへ羽織のひもを織る仕事を見学に行った時の話である。熱心にその光景を見ていたが、朝から心にかかることがあった。「何かが、しきりに私の背中をひっかいているのである。そのものは、ときによると、上のほうへのぼったり、帯のへんへさがったりする」が、見学に夢中で忘れていた。しかしとうとう我慢できず姉に訴える。姉が石井さんを家に連れ帰り裸にすると、背中からねずみが飛び出したという話であるが、石井さんがそれほどに夢中になっていたことに驚く。

こういう出来事なら忘れることはないだろうが、石井さんは3歳頃からの様々な記憶を克明に綴っている。

島尾ミホ「海辺の生と死」

島尾ミホさん「海辺の生と死 改訂版」中央公論社,2013に「洗骨」という短篇がある。奄美大島には、死者を土中に埋めて土に還し、年月を経てから骨を掘り起こして川で洗い改葬する習慣があった。

「骨を洗っていたひとりの若い娘が『おばあさんが生きていた頃私はまだ小さくてよくおぼえていないけれど、ずいぶん背の高い人だったらしいのね』と言いつつ足の骨を自分の脛にあててくらべてみせました」(略)「私もまたいつかはこのようにしてこの小川の水で骨を洗ってもらうことになるのだと、子供心にもしみじみと思いました」

屈託なく笑いながら「久方振りの沐浴だからきれいにしてさしあげましょうなどと話し合って」いる姿が風景の一部になっている。

これも特別な出来事の部類かもしれないが、島尾さんも石井さんのように、身の回りの人や自然、動物などについて鮮明に記憶している。

須賀敦子「こころの旅」

須賀敦子さん「こころの旅」角川春樹事務所,2018に、須賀さんの母が学校の先生に「教室であの子はいつも気を散らしています」と言われ、母に「そういうのを、脱線っていうのよ。お願いだから、脱線しないで」と叱られたことが綴られている。須賀さんには「聞いていると、そこからいっぱい考えがわいてきて、先生のいっていることがわからなくなるの」という言い分があり、それは私自身に重なる。

石牟礼道子「葭の渚」

石牟礼道子さん「葭の渚」藤原書店,2014に大切な友達の家に遊びに行った時の話がある。広い庭に枇杷の木が4、5本あり、木というものは登るためにあると思っていた石牟礼さんは、庭を探検し駆け回った後、枇杷の木に登ると友達を呼び寄せ、実を勝手にもいでは投げ落とし拾わせたことを思い返し「何と躾のなっていない児だと思われたにちがいない」と綴る。

しかし石牟礼さんからは、古い記憶云々よりも、彼女の精神とそれを取り巻く世界との境界が溶け合った神聖性を感じる。それは人間や動物、植物だけでなく、海や空、山や石ころとさえとも交歓・同化し、石牟礼さんはそこから発語しているかのようである。石牟礼さんの言葉には、方言だけではない馴染みのなさがある。そのせいであろうか「苦海浄土」も「椿の海の記」も、いまだに読み終えることができないでいる。時折本を開いて石牟礼さんの世界に浸りたくなるのは、本質から遠ざかった空虚な言葉の氾濫から逃れたい気持ちからかもしれない。

島尾ミホさんの本を読んだのはごく最近のことだが、島尾さんにも同じことを感じた。彼女のことをもっと知りたくなり調べると、なんと石牟礼さんと対談している本があるではないか。

島尾ミホ・石牟礼道子「ヤポネシアの海辺から」

「新装版 ヤポネシアの海辺から」島尾ミホ,石牟礼道子,弦書房,2023である。

「水に対する特別な思い」としてその神聖性が語られた後、

島尾さんが「指先を入れますと、そのお水の質がだいたいわかるような気がいたします」と言うと、石牟礼さんが「ああ、そうですねぇ」と頷く。

島尾さんが「動物にでも鳥にでも語りかけます」と言うと、石牟礼さんが鳥の言葉の意味を尋ね、島尾さんが答える。

なぜそういう人になれるのか。

石牟礼さんが幼少時を振り返り「まあウサギの子か猿の子と同じだったかもしれません、潮が引くとずうっと潮を追って沖の方に行くんです。満ちてくると山に登りまして、山の中を歩いて、もう山と海の境がどこやら見分けがつかないんですが、しょっちゅう一人遊びをしておりました」

島尾さんは「石牟礼さんもそうでしょうけれども、私も、心にも体にも故郷のもろもろをいっぱい受けて育っておりますので、それがもう血肉となって、自然に語り部的になるのかもしれません。(略)性格的にも幼児のままで大人になってしまっているようなところもございますし」

自然だけでなく、誤解を恐れずに言えば、幼児性も見直されていいと思う。

しかし自己と他との境界が曖昧になることは、むしろ辛いことの方が多いのではないか。

石牟礼さんには水俣病患者の苦しみが浸潤し、島尾さんは一体である夫の裏切りに精神の異常をきたす。島尾さんは精神科医から「人間形成の上で培われていく嫉みの感情が育っていない」と指摘される。「嫉み心というものを覚えたとたんに精神が異常になったのでございます」

私が島尾さん、石牟礼さん、石井さん、須賀さんの本を手に取りたくなるのは、極端な「経済的価値観」を原因とする社会の出来事の蔓延に疲れてしまっているからに違いない。

石牟礼さんが「貧しくなったほうがいいんじゃないかと思いますねえ。その方が人間の実質が生きてくる気がいたします」と言い島尾さんが頷く。

それに対して、今は多くの人たちが貧しかった時代とは違いますからね。格差が問題なんですよと訳知り顔で言ってみても虚しいだけである。それよりはむしろ、先人たちから受け継いだ知恵を完全に忘れてしまう前に、もう一度、経済的価値観から少し離れる試みをしてみたい。そして一つずつそれが楽しいことであることを確かめていきたい。

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