西行と石牟礼道子

哲学

西行について漠然とながら引き付けられるものがあり、本を取り寄せては読んでいたが、辻邦生「西行花伝」新潮社,1995を読み進めるうち、それがなぜかわかってきた。

読み始めてすぐに、この作家が紡ぐことば、文、表現の美しさに驚かされた。言葉や文章は、やはり昔の方が綺麗だと思えば、自然と古典の世界に近づいていく。

「西行花伝」は、架空の主人公が西行を思い返し、また西行に関わった人に西行について語ってもらうことで、西行像を浮かび上がらせる物語になっている。

苦しみを抱えた主人公が西行と出逢う最初の場面である。「あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかしそんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。(省略)そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい」

自分の考えは正しい、多少の疑いがあったとしても概ね正しいと、日頃思いこんでいる。しかしそれが正しくないものを生み苦しみを生む要因になっている。確かにそのとおりだが、果たして棄てられるものだろうか。

「わたしは義清がこうした見てくれの虚飾に感心を示したのを見たことがない。といって、それを愛でる人を嫌ったり、非難したりしたこともない。義清は、人はそれぞれ好みが違っていて、その違うのが人間の面白さだと思っているふしがあった」

これはわかりやすい。いつもそのとおりにはできないけれど。

「義清が歌に没頭するようになったのは、衆生を救う大地は、まず言葉によって作られるものであることを感じるようになったからでした。虚空の中に、言葉で、しっかりした大地を作ることーそれがその頃義清が考えていた歌の意味でした」

「歌ほど尊いものはなく、それは心のうちをただ表すだけでなく、人の心を変え、ひいてはこの世を変えることができる」と西行。平清盛が「この世を変えるのは権力しかないと思うな」と返す。一見、理想と現実を対比させたかのようなやり取りだが、果たしてそうだろうか。理想と思っているものの方が実際を表していることや、現実と思っているものが表面的で儚いといったことが、いくつも頭の中を巡る。

「雅(みやび)であるとは、浮世の外の変わりない楽しさを生きることであったのです」

不変を知り、不変に実を置く。不変と一体になる。不変そのものになる。そう感じた時「身が軽々となったのは、浮世の外が、ただこの世の花を楽しむ空間であり、雅の舞台であり、事が成る成らぬから全く免れている場所だからでした。みどりの葛城山も、青く流れる紀ノ川も、稲田を走る風の縞模様も、それだけで、たまらなく愛おしいもの、懐かしいものに見えました。それがそこに在るだけで、胸が嬉しさいっぱいになってくるのでした」という一文に、自身が埋没する。

「森羅万象をいっそう美しく見るために、浮世を離れる」

厭離穢土のことばかり考えていた待賢門院が西行の世界に触れ、浮世の本当の美しさを心の底から味わいたくて出家する。そこに至る心の移ろいは書を手に取ってもらうほかないが、厭離穢土から浮世の本当の美しさに包まれる昇華への道を見つけることこそが、人間の魂の成長ではないかと思う。

西行が待賢門院との恋で「現身(うつせみ)に死ぬ—現に生きているにもかかわらず、死者として存在する―それはまさしく出離遁世の真の姿」であろうとし、「この花咲く相(すがた)こそ、薄紅色の枝垂れ桜に包まれた女院に他ならないことを解ってくださるでしょう」と抱きしめる。

私はここで石牟礼道子が思い浮かんだ。水俣病患者の苦しみがそのまま彼女の苦しみであるだけでなく、人と人との境などとうに超え、石牟礼道子は花であり虫であり鳥であり、海であり空であり風であった。人の言葉を発しないそれらのもののことばが、体の中に満ちており、生まれながらにして西行の世界を生きた巨人であった。

「綺麗な歌を作る人が、そうした現実を生きていないのでは意味がない。大事なのはその綺麗さを生きることだ。それを生きて、その結果、綺麗さが溢れて滴り落ち、それが歌になったのなら、その綺麗さは真に生命を持ったものと言える」これは西行が出家前に歌を習っていた藤原為忠から言われたことだが、石牟礼道子を表す言葉でもある。美しく生きた人の言葉をもう一度かみしめたい。

西行や石牟礼道子のように「すべてを宿命に託すこと—もはや自分がどうなるかをくよくよと求めず、与えられたすべてを引き受けること—そこから生まれるきっぱりとした晴れやかな一日」を送りたい。

「受け入れるとは、それを慈悲で包み、自分のなかに同化することだ。錐で突き刺す苦痛も、喜んで受け入れる。人に蔑まれる境遇でも、心を弾ませて抱きとる。我が身にそれが迫っても、不可避の定めとして私は、むしろ貴さに心を満たされて迎え入れていく」とし、「ただその際、無力な私たちにも、一つだけ力が残されている。それは宿命から超え出て、私たちのほうからその宿命にいろいろ意味を与えることだ。それだけは宿命に支配されず、私たちの手に委ねられている。だから、私たちにできるのは、外面では宿命に従うが、内面ではそんなものは問題にしないことなのである」と、具体的な方策を示している。

西行が修めたように、住み籠った我執という家を脱却し、「我という家を出て軽々となった心は、物の好さの中に住む。花の色、月の色、夜明けの色の好さに共に住みなしてゆく。それはほとんど恋のときめきに似ている」という世界を求めることが、私が強く欲していることだと気がついた。

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