東京新聞「13歳がつくった川の図書館」 5月21日

哲学

自由な「川の図書館」

5月10日の記事が印象に強く残っていて再読した。調布市内の多摩川河川敷の「川の図書館」の話。

コロナ禍で図書館が閉鎖した3年前に、13歳の女子中学生が弟と二人で始めた「川の図書館」。寄付された本は返却不要。ほぼ毎週日曜日の午前10時から正午まで、大きな欅の下で開かれており、ベビーカーに小さな子供を乗せた家族や若い人、年配の方が本を選んでいる写真が掲載されている。

市役所に企画を持ち込んだが公園の利用は認められず、両親の励ましにより場所を河川敷に変更。寄贈本70冊でスタートし、現在の蔵書は8,000冊というから驚く。都内のほか、青森県や千葉県など9か所に分館ができたというのも凄い。

好きな時に欅を目印に出かけていき本を選ぶ。大きな図書館に比べたら十分な蔵書数とは言えないが、そこには市立図書館が失ってしまった「人と人とのつながりや、行き過ぎた管理からの自由」がある気がする。

管理強化された市立図書館

私には、市立図書館に勤めた経験がある。30年ほど前の6年、つい最近の1年。30年の間に市立図書館はこんなにも変わってしまったのかと驚いた。資料購入費は激減し、利用者管理・職員管理が強化され、利用者とのつながり・職員同士のつながりが希薄になり、 ほんの少しのことでトラブルが生じるようになっていた。世の中全体に「寛容さ」が無くなっている状況と軌を一にしているといえばそれまでだが、一緒に働いている職員にそういった意識がないことで私は孤立した。

私はどこに向かっているのか

「川の図書館」に感じたのは、私が勤務した市立図書館が失い、しかしながら問題視されることのない「人と人とのつながり」の原点である。言わば憧れのようなもので、そういう憧れを持つこと自体が、組織や社会から取り残されていく病巣のようにも思えてくる。

「川の図書館」のような企画であれば、捨てるに捨てられない蔵書であっても、ごく一部を除けば寄贈してもいいなと思う。今の私にはそれくらいのことしかできそうにない。

一方で、SNSを開けば、知人たちが様々な社会活動を行っている。そのいくつかから誘われ、曖昧なお断りの返事をしている。参加することは継続することであるが、その自信がない。中断するくらいなら最初から参加しないほうが不信を買わずにすむ。そう考えてしまう。そう考えると社会的活動は何もできなくなる。それが今の私だ。人と関わらなければ人を傷つけることはないだろうという思考に陥ってしまった。人と関わることこそが、人を傷つけない関係を学ぶ術であるという前向きな気持ちになれないほど、傷つけた人の山を築いてきたように思えるのだ。

だからまだ私はここにいる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました