「学校なんか行かなくていいんだよ。博士になれば」 6月18日

哲学

今日も早朝から昼まで漆を塗っていて、集中しないと「ウッカリ」で失敗するのだけれど、4時間も同じ姿勢で同じようなことをしていると、ついつい色々なことが頭に浮かんでくる。

本通り商店街

昭和40年代、小学生の頃は、当時としては大きなショッピングセンターが二つもあり、世の中全体も我が家も質素な時代ではあったけれど、精いっぱいのおしゃれをするために衣料品店によく通った。母が買ったバーゲン品のシャツを授業参観日に着ていったら、クラスに4人も同じシャツを着た子がいて、笑ってしまったという話を、母からよく聞かされた。

レコードや楽器を販売する店もいくつかあり、中学生の時にはモーリスのフォークギターを15,000円で買ってもらった。

1980年にジョン・レノンの「ダブル・ファンタジー」というアルバムが発売され毎日聴いていたが、そのすぐ後にジョン・レノンが殺害され、そのことを知ったのも商店街でのことだった。

その情報をもたらしたのは、商店街から裏通りに抜ける路地にある料理屋の子で、小学生からの友達Yだった。

Yは午後3時ころになると、親が料理屋の開店準備に入るため、その時間に夕食をとるのだった。遊ぶのを中断してYが夕飯を食べるのを見ていた記憶がある。いつもお腹が減っていたので羨ましかった。

社会人になり商店街を歩いていると、通りの向こう側から私を呼ぶ声がする。生活に困窮しているらしき幼馴染が駄菓子屋の前に立ち、小さな冷蔵庫を示しながら「牛乳を買ってくれ」と大きな声で言っている。牛乳くらいならと、通りを渡って代金を払った。

それから何年かして商店街を歩いていると、父の教師時代の親友、川本さんにバッタリ会った。日差しが長い季節の夕方だった。

「年金が入ったからご馳走するよ。そのへんで一杯やろうよ」と誘ってくれた。

入った店はYの両親の店だった。

父が亡くなり数年が経っていたが、父の思い出話を沢山聞かせてくれた。父の月の命日には欠かさず墓参りをしてくれ、そういう親友がいることを羨ましいと思った。

川本先生語る

父の思い出話が終わると川本さんの半生の話になった。

肺を悪くして入院してね。手術したんだけど、麻酔はしなかったよ。痛みで意識を失いそうになると、助手が男性の急所を一気に握りしめてね。そうすると意識が戻るんだよ。摘出した肺と切除した肋骨の空洞はピンポン玉で埋めたんだけど、それは当時偉い先生が提唱していた手術なんだよ。

入院中は勉強をしたくてたまらなかった。入院中にラジオを聞いて勉強しようと思ったけど、ラジオを買うお金がなくてね。安い部品を買い集めてつくったよ。ラジオ講座を聞いて色んな知識を身に着けたよ。当時は化学と物理の間の課題といった、個々の学問の隙間を埋めるような知識や技術が十分ではなくてね。僕はそういった分野で特許を沢山取得することができたんだ。

僕はね、中学校しか出ていないんだよ。それがね、東京大学の大学院で教えていたこともあるんだから愉快じゃないか。K君(私の名)、学校なんかね、行かなくてもいいんだよ。博士になればいいんだよ。

にっこり笑って杯を傾けた。

私は学校が嫌いであまり行かなかったが、博士になるより学校へ行く方が余程か簡単だと思った。

その川本さんも、それから数年して亡くなってしまった。年を取ると身の回りでも亡くなる人が増えてくる。

死んだ人はごまかせない。死者は見ている。肝に銘じて今日一日を生きる。

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