安息 1月12日

懐かしい時を求めて

母の人工呼吸器の管を抜いた。それから1時間後に面会をした。

管を抜いた直後はうまく発生ができない。何を言っているのか最初は聞き取れなかった。娘が口元に耳を近づける。

聞き取れた第一声は「も~、イヤ!」であった。その次は「口からご飯をたべさせてもらっていない」と不満の声。

車で1時間のところに住んでいる娘に「遠くからありがとう」と言った時は、「おぉ~孫を認識してるじゃん」と喜んだ。

鼻から高圧の酸素を送り込んでいるが、喉に太い管を刺し込んだ状態よりは負担は少なそう。時間が経つにつれ、声が大きくなり、はっきりと聞き取れるようになってきた。

「ネックレスがあるから、死んだらもらってほしい」と母が言うと、「元気になったらもらいに行くよ」と娘が答える。

「(私の)財布はあるか?帰りに何かたべていくといい」と母。娘たちが遠慮する。

妹と甥に面会を替わり、終わった後に様子を聞くと、「寿司を食べたい」とまた食べることを言っていたようだ。

祖父(母の父)は80歳を超えて脳の手術をして10年生きたが、トンカツが好きで病院を脱走しては食べていた。血は争えない。

医師が言うには、腸の閉塞した部分には、蟹や糸こんにゃくのようなものが大量にあり、簡単に押し出すことができなかったとのことだった。

同居している妹たちが言うには、大晦日には刺身、カニ鍋を食べ、年越しそばは汁が旨いと飲み干したとのことで、食べ過ぎの上、十分に咀嚼できていないのが原因ではないかと思った。

大きなケーキは食べた後、皿に残った生クリームをぺろりと舐める。法事などでは、コース料理が残っていた記憶がない。

甥のスマホには母の日常写真が大量にあり、それも口を開けて眠りこけている写真など、変顔のものが多い。まだ意識がしっかりしていない時に母にそれらの写真を見せたところ、肩を震わせて笑ったという。「いやらしいねぇ~」と言いたかったのだろう。洒落たことするなぁと感心してしまった。

笑ってばかりの面会だったが、これからの不安がなくなった訳ではない。1日1日容態がどう変わっていくかわからず、私は酒を控え、寝る時はスマホを充電しながら枕元に置く。スマホが鳴らずに朝を迎えた時の安堵感。これがいつまでつづくだろうか。

願うのは、以前のように会話ができるようになり、「延命」について話し合うことだ。「苦しくて死にたいと思った」とは言ったものの、次回どれだけ耐えられるのか、耐えようと思うのか、親だからこそストレートに聞いてみたいと思っている。

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