ある男の記憶

文学

歳を取り、はるか昔のことばかり思い出すのは、私だけのことでしょうか。

棄て去ったはずの時間の破片が、心のあちこちに刺さって傷だらけになっていたのに、それに気づかず、あるいは気づかないふりをして時を重ねたことで、取り返しのつかない病に陥ってしまったような気がしています。

昨夜も食事を終えると早々に横になり、枕元に高く積み上げた書物を漁っているうち、眠りを誘う湿った風が西の窓から入ってきて、意識的なのか無意識なのか、一人ほほ笑んで目を閉じました。

それは夢を見る楽しみを目の前にしているからです。

深夜、寝返りを打ちカーテンを見上げると、カーテンは風を孕んで大きく膨らんだまま、そこで動きを止めていました。風もカーテンもそれ以上の主張をせず、時が歩を休めて様子をうかがっていました。

「おや、変だな」と呟き、なぜか昔会った男のことを思い出したのです。

その男に会ったのは、駅前のスナックのカウンター席でした。

その頃、私は社会人になったばかりで、一人で酒場に足を運ぶような金も度胸もなかったので、おそらく仲間が先に帰り、電車の待ち時間を一人でやり過ごしていたのだと思います。

どちらから話しかけたのか、その男がどのような顔をしていたのか、そういったことは全く記憶から抜け落ちているのですが、その男のため息や怒りは忘れられないでいます。

男は、美しい婚約者の話を始めました。

その男は20代の私よりも二回りは上の40代くらいだったように思いますが、婚約者の話をしている時の顔は照れくさそうで好感が持てました。

婚約者との深い関係は、結婚まで待たされていたようですが、それを待つことの喜びをも男は語ったように思います。

男は農村に暮らしていて、結婚式の直前に近所に挨拶周りをしたそうです。美しい婚約者を連れて歩くのが誇らしかったと、輝かせた目を私に向けました。

男はそこで話を一区切りさせ、ウイスキーの水割りの残りを飲み干すとおかわりを求めました。

私は、男のありふれた演出にも好感を抱き、話の続きを待ちました。

男は新しいウイスキーのグラスに目を落とすと、先ほどまでとは打って変わって、表情を曇らせました。

「それがだね、…その女は、男だったんだよ」

思わぬ話の展開に、私は戸惑いました。

その後、男が何を話したのかは、あいまいな記憶しかありません。

覚えているのは、婚約者に騙されたことへの男の怒りと、婚約者への未練でした。

怒りと未練は何度も繰り返されました。

「ほんとうに美しく、…いい女だった。男だったがね」

その男に起きたことが40年前でなく今だったら、違う展開になっていたのではないかと思います。

私はずっと、その男のことが記憶の片隅に残っていましたが、今は、その婚約者のことの方が気になっています。どういう気持ちで過ごし、その後どうなったのか。

好きな人に本当のことを言えなかった辛さや、打ち明けた後の辛さ。今では確認しようもありません。

生きているとすれば、二人とも80代から90代でしょう。小さな町に住んでいれば、知らずすれ違っていたこともあるのかもしれません。

言葉には表せない、言葉では確認できないことにこそ、本当のことがあるのではないかと思うようになりました。

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